月曜日の朝、スカートを切られたゆとり世代
、、なんだこのタイトルは!と思った方が多いと思う。すみません。
これは、欅坂46のファーストアルバム・リード曲「月曜日の朝、スカートを切られた」という曲からとった。
先日、あるツイートを見た。この月曜日の朝、スカートを切られたという曲がゆとり世代の考え方だというものだ。今日はこれについて語りたいと思う。
この曲、前提として欅坂46のデビュー曲であるサイレントマジョリティーの前に当たる曲だ。サイレントマジョリティーは、社会や大人に反抗する曲である。だから、月曜日の朝、スカートを切られたという曲は、反抗する前の燻っている状態を描いている曲である。
そのツイートによるとゆとり世代は手本になるような人生を楽しんでる大人がいないため、切磋琢磨せず馴れ合うと言っていた。
ゆとり世代の私はまずこれについて意義を唱えたいが、まぁきっとゆとり世代の方ではなくてあまりゆとり世代のことをよく思っていないのだろう。ここはおいておく(腸煮え繰り返ってるけどな!笑)
本題に入ります。月曜日の朝、スカートを切られたは、日常に不満を持ちながらも反抗できずにいるという曲です。みなさんもそういう経験を持ったこと一度はあると思います。主観では、この共感がこの曲には必要だったのだとおもいました。ただサイレントマジョリティーで反抗をしろ!と言ってもきっと出来る人なんてそうそういないわけで。この月曜日の朝、スカートを切られたという曲で燻っている状態を表すことで主人公がみなさんと同じような勇気がでない弱い人間であるということを示したいのだと考えました。
だからここにはゆとりは関係ないのです。さらにいえば、馴れ合いもなにもないのです。自分との葛藤です。
曲中に「あんたは私の何を知る」 という歌詞があります。この一言にすでに反抗したい思いが溢れているのです。
長々と書きましたが、私はこの曲の裏側を知らずに単に軽く歌詞を見ただけでゆとりだと決めつけてしまったこのツイートに対して非常に腹が立ったので今回このブログを書きました。
私はこの曲とても好きです。
個人的に共感した歌詞を。
「反抗したいほど熱いものもなく、
受け入れてしまうほど従順でもなく
後何年だろう ここから出るには
大人になるため嘘になれろ」
ちょっと暗いですけど非常に共感したので。